【ネタバレあり】映画『すずめの戸締まり』を観た後に残った、この例えようもない不快感

はじめに:この記事は映画『すずめの戸締まり』に対する個人的な感想を述べたものです。私は映画をよく見る方ではないので、専門的な映画の見方とか、オマージュ先の考察とか、構造に関する鋭い分析といったことは一切できません。ただ一つの作品を見て率直に思ったことを述べただけの記事になりますので、ご了承ください。

 

この映画を見ている最中、僕は「おいおいこりゃやべえな」「最高傑作だなこりゃ」「めちゃくちゃおもろいやんこれ。めちゃくちゃおすすめできるやん」と思っていた。たしか雰囲気がロードムービー然としてきて、芹澤さんの車で走ってたあたりのことだ。てか、その前の神戸でルミさんのお世話になってなってたところも良かった。というか、ルミさんの声がめちゃくちゃ良かった。これは本当にガチでめちゃくちゃ良かった。関西在住の人情に厚い女の人として、彼女の声は完璧だった。この声を持つこのキャラクターという存在に、人情に厚い関西女性としての全ての理想が体現されていると言ってよく、それはまさに奇跡のような存在だった。二ノ宮ルミは奇跡のような存在だった。たとえこの映画を何となく見る気が起こらないと言う人にも、二ノ宮ルミというキャラクターは知ってもらいたい。このキャラクターがある有名な映画に存在し、物語に愛され、主要なキャラクターとして役割を全うしたという事実は全ての創作を愛するものたちに知ってもらいたい。「○○しとう」と、ちゃんと神戸寄りの関西弁になっていたところもよかった。

 

芹澤さんに話を戻すと、彼の立ち位置、顛末、センス、その他諸々は非常に気持ちがよかった。まず、大半の視聴者は、彼がいい(悪い)タイミングですずめに声をかけてしまったおかげで、環さんに詰め寄られて怒鳴られてしまうところで、彼のことを好きにならずにはいられなかったのではないだろうか。私はそうだ。いや、たしかに一人でいる女の子に声をかけて同乗させてあげようって話はにわかには信頼できないし反射的に警戒してしまう場面ではあるんだけれど、だからって女の子をたぶらかして攫っていって地元から東京まで連れまわした極悪非道ヤリチン男と勘違いされて育ての親に詰め寄られるのは不憫が過ぎるだろ・・・。愛おしい・・・。となってしまった。うむ。

どういう意味があるのかはよく分からないが『魔女の宅急便』のライトなオマージュっぽいのが挟まれるのも何とくなく気持ちよかったし、散々母娘のいざこざに振り回されたあと、でも何だかんだ首突っ込んでみてよかったな、と言わんばかりに伸びをする(たしかしてたような記憶がある。伸びしてなかったらすまん)シーンも非常に爽やかだった。「みみず」に向かって走っていたすずめを追いかけて自転車で走っていった環さんを見送る芹澤さんのシーンのことです。

 

細かい所になるが、旅モノの「交通費問題」「スマホの充電問題」がきっちりと描かれていたのも納得を誘った。よく無茶をして飛び出した主人公がめちゃくちゃ電車乗ったりずーっとスマホの充電が切れなかったする話あるじゃん。これって細かく気にしだすとノイズになるから見てる側としては無視しきゃいけない部分だと思うんだけど、見てるとどうしても気になってしまうんですよね。それがこの作品ではちゃんと描かれていて、諸々の支払いは電子マネーでしてるっていうのが分かったし、何ならそれが物語のプロットを動かす重要なファクターになったりするし、スマホの充電もちゃんと切れる。スマホ社会を生きる一般市民としての肌感覚を大事にしていることが伝わってとてもよかった。一切お金を持たずに飛び出しても電車移動に現実上の矛盾が生じないというのは現実社会の技術の進歩による物語における一種の革命ではないだろうか。技術の進歩万歳、電子マネー万歳。(ICOCAでもいいけど、普通高校生がICOCAにそんなたくさんお金入れないしな)なければないで「あ、こっちで無視しとくんで別にいいですよ」と譲歩する準備はあるのだが、あればやっぱり嬉しいし、あるに越したことはないのだ。

 

それと、後回しにはなってしまったが、主人公である「すずめ」の人間性にも惹き付けられるところがあった。ついでに「草太さん」が実は大学生で教師として就職するつもりだと話すところもめちゃくちゃ良かった。ああいう「閉じ師」みたいな仕事をしている人が現実的な職業にも就くみたいな描写は、十分時間とスペースの取れる漫画とかならいざ知らず、こういう映画みたいな時間の制約が厳しい媒体だとそんなにない。のではないだろうか(そんなに映画見ないから分からないが)。「大学生なの!?」とびっくりするすずめと気持ちがシンクロしてしまったし(その時のすずめの表情も良かった)、あれで一気に「千と千尋のハクみてーな謎のイケメン」から「同じ世界に生きる一人の立派な青年」へ草太さんはジョブチェンジした。あのシーンがあったからこそ、ラスト付近の「君に会えたから……君に会えたのに……嫌だ、もっと生きたい……!」といった独白にも熱量が出たし生々しく感じられて体温があったのだと思える。

すずめは死ぬのが怖くないという。この一言が私を画面に惹き付ける引力として機能していたと思う。若さ故の勢いであったり、虚勢、あるいは破滅主義。そういった怖くなさではないということが序盤からそこはかとなくそれでいて確かに感じられ、一体どうして怖くないんだろう?と気になりながら見ることが出来た。鳴らされるクラクションを意にも介さず車道を思いっきり横切るシーンも、よくあるっちゃあるのかもしれないがこの作品の文脈を踏まえるとまた違った風に見える。迫り来る車を避けながら車道を横切るというのは、実際物理的な問題だけ考えるとそんなに難しいことではないのかもしれない。それでも実際車道を目にするといやこんな絶対無理やて!って思ってしまうのは、やっぱりぶつかられるのが怖いからだ。(規範意識的な躊躇もあるがまあそれは今はいいだろう)だから、すずめは死ぬことが怖くないから、案外簡単に車道を横切れたのかもな、なんて思いつつ見ていた。

すずめは「自分がやらなくちゃいけないこと」に真っ直ぐ向かっていく本能的な強固さと向こう見ずさを持ったキャラクターだ。だが、それと死の恐怖というのは話が別だ。いかに責任感の強い戦士であっても、刃を前にすれば足が竦む。その竦みを意志の強さでもってねじ伏せる力が勇気と呼ばれるのだが、すずめというキャラクターの造形においては少し事情が違うようだ。すずめがいかに危険をものともしない無茶な行動を取っても、それがなぜだか「勇敢」と映らないように明確な意図を持って丁寧に描かれていることが感じられた。こうして、すずめの意志の強さと「死ぬことが怖くない」という概念を互いの対照によって際立たせながら、物語がテンポよく動いていく様に私はすっかり引き込まれた。

そして、物語が佳境に入り、すずめは何故死ぬことが怖くないのかということが明らかになっていく。初めは病室で草太さんのおじいさんに問われ、「生きるか死ぬかなんて運次第の紙一重だとずっと思っていた」的なことを答えるシーン。町が消えてなくなり人が大勢死ぬような大災害を経験した者の心境なのだろうと想像が付く。あまりにも大きな自然の暴力の前に、大勢の人が死に、自分が生き残ったことに意味や理由なんてなく、ただ運のいい場所にいたから。それを痛感する中で芽生えた一種の諦観のようなものなのかもしれない。3.11との関連性が示唆される中で、すずめが大災害の記憶に「黒塗り」で蓋をしていたような描写がある。恐らくこれは完全に地震のことを忘れたという訳ではなく、自分が3.11を経験したということは覚えているが、そこで何があったか詳細な部分を忘れるような、部分的な蓋だったんじゃないか。蓋をした記憶と一緒に、死への恐怖もそこに忘れていったんじゃないかと何となく思う。この辺りは正直完全に理解したわけではないので曖昧だが、ともかくそうした「勇気ではない死の恐怖の欠落」が、ラストシーンでの「もっと生きたい…!」という切なる叫びに変わっていくところにドラマがあり、そうした変化が明確に感じられたのも気持ちが良かった。

 

他にも、すずめと草太さんの関係性の育み方も良かった。草太さんの部屋で無意識に椅子になった草太さんに乗ってから、後で気付いて「踏んでいい?w」と聞く場面はめちゃくちゃ好きだし、あと環さんとすずめの言い合いも良かった。「コブ付きだから婚活も上手くいかない」という生々しすぎる文句に、「頼んで拾ってもらったわけじゃない」と、育ての親としての矜持、原点、すべてを打ち崩すような残虐な言葉で返すすずめ。もうこれで本当に関係が終わってもおかしくないほどの容赦ない気持ちのぶつけ合いだ。(しかも面白いことに、「私が環さんの大事な時期を奪っちゃったのかも」という前々から抱いていた危惧が、すずめにとっては的中していたことが明らかになった場面でもあるのだ。)それでも二人が終わらなかったのは、環さんの「駐車場で言ったこと、本当のことだけどそれだけじゃないよ」という言葉に集約されているように、たとえそれが本当であっても、それだけじゃ説明のつかないような記憶が思い出としてあったからだろう。生きてりゃ色々ある。それでも寄り添った者たちの間に芽生えるもの、それが人情であり、人情は全てのものの中で最も暖かいものだ。単なる「家族だから」とかいったゴリ押し言葉によってではなくしてこの衝突と関係の尊さを描いたこの言い合いは素晴らしく、言い合いっていうのはこうでなくっちゃなあ、という思いが見ながら頭の中で反芻していた。

 

そう、めちゃくちゃ良かった。この映画はめちゃくちゃよかったのだ。好きなところを挙げるだけでこんなにもずらーっと並ぶ感じになった。にもかかわらず、作品を観終わって劇場を出る時、僕の胸の中には例えようもない不快感がもやぁっと広がっていたのだ。何故か。それは作品のラストではないが最後の方の締めに入るシーン、いわばクライマックスのシーンがガチで死ぬほど気持ち悪かったからだ。そこまで良かったのにそこが、まあ言っちゃえば一番大事なとこが気持ち悪かったせいで全部クソになった。場面でいうと、すずめが常世に突入してから、「みみず」を封印し、過去の自分との邂逅を果たして帰還するまでのシーンだ。全部クソになった、というのは、上で述べて来たようないいシーンが全部無意味になった、というわけではなく、もう完全に心情的にこの映画を他人にオススメしたくない気分になった、という意味だ。この映画見るくらいだったらMidsommar見た方がマシ、という気持ちだ。因みにMidsommarは自分が見た中で最後のめちゃくちゃ好きな実写映画である。

 

問題のシーンに関してだが、左大臣がみみずと戦っているところは良かった。すずめが「私が要石になる!」と覚悟して要石になった草太さんを抜きに行く所も良かった。要石になった草太さんを引き抜いて吹っ飛ばされたところでちょっとうーん……?となった。吹っ飛ばされてちゃ要石になれないぞ!急いで石になろうとしろすずめ!そして、ダイジンが悲しそうな顔をしながら仕方なく要石になるところでその「うーん……?」が最初の「もやっ」に実を結んだ。そのダイジンを見たすずめは涙を走らせるのだが、その涙はもはや無意識の傲慢であり欺瞞に思えた。そうなのだ。もうちょっと要石になろうとして欲しかったのだ。要石を引き抜こうとするすずめにダイジンが手を貸す辺りで、これダイジンが要石になってくれるんだろうな、というのは何となく分かった。それ自体は展開として別にいいのだが、すずめが吹っ飛ばされてからダイジンが要石になるまでの時間が、刻一刻と日本を終わらすレベルの大災害が迫っているというのに、ダイジンが要石になってくれるの待ちの時間に思えてしまったのだ。例えばすずめが半分くらい要石になったところでダイジンが代わってくれるとか、せめて「ごめん、私行かなくちゃ!」とかそういう焦っている描写が少しでもあれば話は違ったのだが、そういうこともなく、ダイジンは親切心を働かして粛々と要石になってくれてしまった。僕はこの時点でダイジンについて、「ずーっと要石になっててしんどかったけどすずめがうっかり解放してくれたからすずめに懐いててついでにたまたま居合わせた草太さんを要石にした」っていう感じなんだろうなとぼんやり思っていたが、これじゃあ元の木阿弥というか、要石の仕事がしんどいからそこから解放されて喜んでいたのに、またしんどい要石に戻るにはこれじゃあちょっと説得力が足りなくないかと思った。草太とすずめの愛の強さに打たれたとでも言うのだろうか。ダイジンがそんなメロドラマ級の価値観を持ち合わせているとは思えないが……。すずめの方も、焦っている描写がなかったことで、最後の最後でダイジンの親切心に甘える形になっているように見えた。最後まで「自分のやらなくちゃいけないこと」に意地っ張りな主人公でいて欲しかった。

 

と、ここまで散々述べて来たが、このシーンだけなら「自分の性根がひん曲がっているだけ」というので説明がつくし、「本当は焦ってたけどそれを見せるだけの時間がなかったのかもしれないな」というので納得もできるので、こんなにクソクソ言うほどの気持ちにはならなかったことだろうと思う。本当に吐き気がするほど気持ちが悪くなったのはこの後のシーン、そしてシーンというよりは「現在のすずめが過去のすずめを抱き締めながら言うセリフ」だ。何を言っていたかもちろん一字一句正確に覚えているわけではないが、たしかこんなことを言っていた。「大丈夫、あなたはちゃんと大きくなる。光の中で育っていく」と。このセリフを聞いた時僕は、「なん……っでこんな宗教染みたこと言うんだよォォッ!!」という気持ちになった。

ところで、自分は世間の平均より少しだけ「宗教」という言葉に対する好感度が高い方の人間だと思う。若いころにトルストイの『光あるうち光の中を歩め』を呼んで宗教に基いた敬虔な心持ちの美しさに感銘を受けたり、仏教の人生考察から得られる哲学的考え方は非常に味わい深いものだと感じたりしている。最近では、THE DANCE DAY という番組でK famというダンスグループが行ったパフォーマンスに宗教じみさを感じたが、彼女らのパフォーマンスは極めて誇り高く美しいものだった。

それはそれとして、すずめのあのセリフが象徴しているのは、日本のどこかで常に醜い何かを覆い隠している気味が悪く生ぬるく生臭い宗教だ。宗教的な要素が十把一絡げに気持ち悪いと言っているのではない。いい宗教じみ方と悪い宗教じみ方があって、このセリフはその中でも一等気持ち悪くて最悪の宗教じみ方だと感じた、ということだ。これが僕のこのセリフを聞いた第一印象だ。

後から思い返してみるとやっぱり宗教とか関係なく最悪で、これは僕の個人的な体験に基づく話だが、今を苦しんでいる時に将来の話をされて気分が良くなったためしがないということだ。この時の過去のすずめは、まさに震災のあとで親を失ってめちゃくちゃ今という時間を苦痛を伴って歩いている状態だ。自分がそんな立場にあったと考えて、このようなセリフを吐かれたらと考えると、孤独と疎外感で冷や水の中に落とされた後に、無理解と無神経を感じ取って頭に血が上り、最後にとめどもない嫌悪感で吐き気がしてくる。こういう状況下にあって将来の話をするというのは、未来という限りない不安の中に投網で引っ捕まえられてぶん投げ込まれるのと同義だ。今苦しんでいる私がここにいるのに、そこにいるあなたは手を差し伸べる振りをして、未来という顔も知らない他人に丸投げしようとしている。なぜあなたは手を取って横に並んでたとえ仮初であっても僅かな安息を与えてくれないのか? これに関しては、というか今までの文章も全部そうだが、あくまで自分がそう感じるという話であって、今を苦しんでいる時に将来の話をされて気分が良くなったことがあるという人にとってはこのセリフはめちゃくちゃ響くのかもしれない。その人には僕の感じていることが全く理解できないだろうし、僕もその人のことは分からない。それは仕方ない。

見方によっては、現在すずめはただ事実を述べただけと考えることもできるかもしれない。いい大人に見守られて、いい出会いがあって、「すずめ」は無事ここまで大きくなったという事実があるから、それを伝えただけなのだと。それにしたって、このセリフはいささか象徴的にすぎる。先に何かしらの思想があって、それを説き広めるための象徴的な意図を込めたセリフにしか見えない。これまで生き生きと跳ね回っていた一人の少女が突然使者となり、代弁者となってしまった。そこが言い知れようもなく気持ち悪かったのだ。

いや、まあそれもよく考えたらあらゆる創作物で普通に行われていることで、意味合いが納得できるものなら気にならないものなのかもしれない。つまりやっぱり内容が気持ち悪かったのだ。

 

オススメしたくない、という気持ちには二種類ある。一つは、その作品が好きすぎて他人の好みに合わなかったり、逆にもっと卑しい気持ちで言うと自分より深く理解されちゃったりするのが怖いという気持ちだ。要するに他人がどう思うかが不安、という話だ。もう一つは、単にその作品がクソだから、その作品の味方をしたくないから、オススメしたくないという気持ちだ。この作品は後者だ。この辺で補足しておくと、私が「クソだ」と述べているのは絶対的な誰にでも当てはまる固定値的な意味ではなく、あくまで主観的な「この作品はクソだなという気持ち」を表しているのだということは言っておきたい。その上でやっぱり今見てきた映画はクソだったなと思う。

このブログには今この記事と映画『バブル』の記事しかないと思うが、『バブル』は僕の大好きな作品だ。『バブル』も大概クソ映画だったが、クソはクソでもクソの種類が違い、『バブル』の場合は、クソの中に手を伸ばし目を凝らして物語を深く見つめると、そこに宝石があったのだ。こんなにも綺麗な宝物を下らねえ三文芝居で覆い隠し深い靄の中に閉じ込めるなんて、なんとやるせなくもどかしいことかと思ったが、結局はその宝石が僕は好きなので、そのもどかしさも含めて僕は『バブル』が好きだという評価に落ち着いた。一方この作品は逆で、近所で評判の名士の家に招かれ、門をくぐると香りも良く美しいが決して厭らしくはない、抑制の効いたそれでいて見せたい物の主張ははっきりと分かる、すばらしく整備された庭園を通り、既にすっかりその名士に対する信頼と好感が高まっていることを自覚しながら玄関の扉を開くと、そこには特大のクソがあったという具合なのだ。そりゃあ嫌に決まってるわ。

 

と、ここまで長ったらしく書いてきたが、私のこの映画に対する感想を要約すると「ずーっと良かったのに最後で台無しになった」ということだ。いや本当にそれまでずーっと良かったのに最後20分くらいの所だけ変えたい。というか変えてほしい。しかし、視聴者には作品を変える権利はない。いいと思うか悪いと思うかだけだ。そうして、この映画に対する自分の感想は「クソだな」だった。

 

最後に、声の出演について少し述べておくと、草太さんが最初に喋った時、棒読みフェチの僕は「おっ、棒読みか?」と少しワクワクしたが、それ以降は自然な演技をされていたので棒読みフェチじゃない人も安心だと思う。SixTONES松村北斗さんだということは後から知った。最初のセリフはまだ慣れてなかったんだろう。あとは二ノ宮ルミを演じていた伊藤沙莉さんはこの作品で初めて知ったが、この方は神だ。神というか……神だ。神としか言いようがない。ありがとう伊藤沙莉さん。ありがとう二ノ宮ルミ。

 

終わりです。

 

話題の映画『バブル』を見に行ったら思いの外面白かったという話

#映画バブル 感想

まずこの映画を取り巻く状況として、既に悪評が悪評を呼び、「みんながつまらないって言ってるからつまらないのだろう」という段階に入っていることから、今更世間の評価を如何するということは不可能であると認識してはいるが、私個人の感想としては非常に面白い良い作品であった。

悪評は雪だるま式に肥大化し今や止めようもないが、その発端には視聴者の不興を買った「引っかかるポイント」が必ず存在する。それらのポイントは本作の支持者である私の目にも明らかであり、端的に申すと

・キャスティングの失敗──志尊淳とりりあ。(と広瀬アリス)は神木隆之介上白石萌音になれなかった

・キャラデザの失敗──小畑健はキャラデザ一般に高い評価を擁する作家ではなく、また彼が類稀なるデザインセンスを有する「病み/ゴス系」のキャラ(ミサミサリューク、L等)が本作にはほんの少し(仮面を外した時のアンダーテイカー)しか登場しない

・主人公キャラ付けの失敗──主人公の内面に対する作り込みが不足している。視聴者は主人公に関心を持てず、主人公への無関心は主人公を取り巻く事態への無関心へ繋がり作品への没入感を失する原因となる

・ターゲッティングの失敗──上記のような失敗によってオタク層の支持を得損ねたにも関わらず、この作品が描きたい主題、軸、世界だかそういったものは完全にオタク向けであった。それ故、オタク的視聴体験に不慣れな一般層にとっては関心を持ちづらい筋書きになっていたことと思う。大衆向けと呼ぶには煩雑に過ぎ、表面的な部分でオタク受けは悪く、残ったのは「これだけ悪く言われているあの作品は実際どのようなものなのだろう」などという捻くれた好奇心を持つ私のような視聴者だけになってしまった。

・プロモーションの失敗──本作の劇場公開と同時に漫画版、Netflix版が公開されたが、いずれも裏目であった。私自身が触れたのは漫画版のみだが、「劇場で見ると良かったがNetflixで見るとめちゃくちゃつまらなかった」という感想があるのは聞き及んでいる。Netflixで見た視聴者が「『バブル』はつまらない」という感想を抱き、それがシェアされることでこの映画の悪評に拍車をかけたことは想像に難くない。
漫画版も同様である。私はジャンプ+の愛読者なのでこの漫画を直に読み読者諸兄の感想も拝読したが、コメント欄では総スカンを食らい、ビュー数ランキングもほぼほぼ最下層と言って差し支えない位置に甘んじている。(余談だが同順位帯であってもビュー数が少ないだけで読者の満足度は高いという作品が殆どであり、順位が低く評価も低いという作品はほんの一握り、本作のコミカライズはその一握りのうちの一つである。)私自身この評価に異議を申し立てる気も一切ないくらいの感想を漫画版には抱いている。全て無料公開されているので詳しくは書かないが、コミカライズに当たって伝達不足、資料不足、行き違い、何かそういった手続き上の不備があったとしか思えない。「これを見て映画行こうとはならないよね」という読者コメントが端的にこのプロモーションの失敗を表している。

・ところどころ不親切──「野良泡」は文字で見ないと意味不明だよ……結構重要な単語なのに音で聞いてもん?ってなって終わりや!あと「アンダーテイカー」(チーム名)のことを気軽に「葬儀屋」って呼ぶな!その単語この国でそんな浸透してないだろ!普通にアンダーテイカーって呼べ!

さて、斯様にして世人の大半から好評を得ることに失敗した本作であるが、私はこの映画を面白いし、良い作品だと思った。良い、とはどういうことかと問えば、芯があり、描きたい画面があり、見せたい世界があり、それを伝える手段にも不足はなくそれどころか新鮮さと驚きがあった。と思った。何よりも、本作の目玉である「バブル」という存在が、不可思議で面白く、怖ろしくて、それでいて親しみも愛着も持てる、とても魅力的なものであった。このレビューを描いている間もあの「バブル」という怖ろしくも愛すべき存在を思い返して余韻に浸っている。しかし、私がこうした感想を持ち得たのも私がこの映画を見るに至った一つの特殊な経緯によるものが大きいと自覚しており、それ故手放しに「ゴチャゴチャ言われてるけど面白いから今すぐ見に行け!!」と勧める気にもなれない所存である。

その経緯というのは、簡潔に言うと「漫画版を読み、『バブル』という存在の正体を確かめるために劇場へ行った」というものである。プロモーションばちくそ成功しとるやんけ!!というツッコミもあろうが、斯様な思考に至った読者が極めて少数派なことは前述の通りなので、勘違いしないように。
漫画版との連関で一つ述べたいのが、漫画版で説明不足だった部分が映画においては気持ちよく自然に説明されている、ということだ。この点も漫画版経験者にのみ許されたある種の快感に過ぎず、多くの視聴者にとってのアピールポイントとはなりえない点は指摘して置かなければならない。子供たちは何故崩壊した東京に残っているのか、いきなり出てきた「赤い泡」って何やねん、「お姉さま」って何やねん、そういった漫画版にあったツッコミどころが、あたかも漫画版に不足していた部分を補うかのごとく(映画が先で漫画版はそのプロモーションなのでそんな訳はないのだが)映画では自然に理解できるようになっていた。逆に言うと、漫画版はこれらの説明不足によって作品への没入感を失しているので、プロモーションの失敗もさもありなんといった次第である。

また、「バブル」という存在の正体についても同様である。私は漫画版を読んで「『バブル』って結局何なのだろう」という疑問を抱いて劇場に行き、結果そのバブルという存在に魅了され満足のうちに劇場を出ることが出来たのであるが、はて大半の視聴者にとって初めからこのような視点を持って本作を見ることが可能だろうかといえば、ノーである。それも甚だしくノーだ。理由は簡単で、本作の宣伝が「制作陣」と「パルクール」にしかフォーカスしていないからだ。せめて煽り文句に「突如飛来した正体不明の存在、『バブル』」とでも付けておけばまだ視聴者の関心の先を誘導することも出来たろうに、今PVを見返しても「制作陣」「好きに跳べ」「崩壊した東京」「ふたりなら、超えていける──(この文句は視聴を終えたあとに見ると一層意味不明だ)」などといったアピールしか頭に残らない。私は「バブル」という存在についてある程度考察し頭の中を整理し答え合わせを求めるかの如く劇場に足を運んだ珍しい視聴者だったため上手く魅了されることができたが(しかも大半の漫画版読者にとっては漫画版の不足点にばかり目に行って、そこを真剣に考察する気にもなれていないのだ)、まっさらな状態で見たなら、パルクールの華やかな画面ばかりが強く刻み込まれ、「バブル」という存在については何か壮大でボーイ・ミーツ・ガールなお涙頂戴が展開されたとしか映らず、総じて上辺だけ美麗な中身のないメロドラマを見たという感想になるであろうことは想像に難くない。この点、「パルクール」と「バブル」で作品の軸が散らかっている、と言われても仕方がない。

主人公に魅力を感じられない、というのは先に指摘したが、その点も私にとっては、「バブル」が何故主人公に惹かれるのかについて当たりを付けていたし、実際に確かめたその理由も納得の行くものだったから、「バブル」視点で主人公が魅力的に見えるのが理解できた。そのため主人公の作り込み不足は気にならなかったのだが、このような特殊な見方でなければ、突如現れた美少女が何故かそんなに魅力もない主人公のことを大好きで……と、クソつまらないの典型みたいな展開としか取れないのも自然である。
また声優についても多少感想を述べると、私は「棒読み声優フェチ」であり、声優が棒読みであればあるほど(私自身認知してない限度はあろうが)幸福度が増す変態なのでアイドル声優は無問題だが広瀬アリスの滑舌は少し気になった。あとシンさんと宮野真守は声と顔が合ってねえな……とは思った。

総じて、作品の表面的な部分や広報・展開の仕方でミスってしまって商業的に失敗しているが(今回観客は私含めて5人しかいなかった)、私は本作が一つの映画として、作品として失敗しているとは思っておらず、作品のコアも、崩壊した東京、無重力空間、パルクールの華やかなアクションの描写も美しく、視聴を十二分に楽しむことができたし、様々の幸運な経緯の結果とは知りつつもそれでも私がこの作品を相当好きなことに変わりはない。小説版も買ってきた。今から読むつもりだ。

それでもなお、他人に勧めるに際して「まず漫画版を読んである程度考察を深めてから行くといいよ」とは中々言いづらく、しかしそうせざればこの作品を芯から楽しんでもらえるとは思い難いので極めてお勧めしづらいというのもまた事実だ。せめて拙文をここまで読んで下さった諸兄においては「バブルの正体とは何か」と言う点に着目して見てほしいと切に願うばかりである。
最後に、本作品の知られざるアピールポイントとして、「マコトさんのケツとおっぱいがでかくてたまらねえ」という点を挙げつつ、筆を置くことにする。